天下一品杯+気合い+金メダル=野球バカ
2010/10/31 Sun. 16:17 [edit]
ケンタロウの夏~それぞれの甲子園~
2010/08/26 Thu. 06:59 [edit]
2010.8.21. 気温33.4℃
沖縄の興南高校が、春・夏の連覇を成し遂げた。
史上6校目の偉業。
ジローもチョコチョコですが、テレビやニュースで見るたび(甲子園大好き)
涙が出そうになることも、しばしばで、
ジローの高校生活がフィードバックして、人事とは思えないくらい、
感情移入の忙しい日々を、過ごす夏の短い期間であったと思います。
ジローは地味ですが、剣道部でした。
小さいころは、少年野球もしてましたが、
目に打球を受けて病院送りになったり、
素振りのバットが頭にあたったりと、
なにかとトラウマになることが多かったために
途中で球を見るのが恐くなってきたことと、
3ッ上の兄貴が剣道を始めたこともあって、
(この頃は、「赤胴鈴之助」の時代で、野球の次に剣道人口が多かった)
ジローの意見も聞き入れられず(俺はサッカーがしたかった)
オヤジに道場に放り込まれたのです。
今では、誰にも負けない、強情な精神力が付き(笑)
体力共に、剣道には感謝しています。
だから、全国レベルの高校生を見ると、
ジローの高校時代と、ダブッて見えてしまいます。
ジローが、高校3年生の時、インターハイで3位になったくらい
強い部でした。
ジローは残念ながら、あと1つの選手枠を逃したので、
メダルをもらえませんでしたが、
一緒に全国3位になった気持ちで、今もいます。
生まれは大阪ですが、小学校、中学校、高校と、
剣道王国の九州・長崎(1番想いの強い故里)にいました。
小、中と、県では、団体は常に優勝、個人でも、県で、最高2位。
(小学校では優勝もしばしば)
毎回メダルをいただいてました。(強かったんですよ。)
高校卒業後の母校の活躍はすごかったですよ。
インハイで何年か連続で、優勝してました。
興南どころじゃないくらいの偉業ですが、
なにせ、メジャーとは、ほど遠い「剣道」
甲子園なら、すごいニュースだったと思います。
って
自慢話は満足したので、「本題」に・・・。
今回の甲子園での、優勝インタビュー。
以下、熱闘甲子園サイト引用。
↓
試合終了後、インタビューで 我如古主将は、
「県民みんなで勝ち取った優勝です」 と答え、
沖縄県勢が甲子園で優勝すると
必ず起こっていたウェーブは、
相模アルプスも一緒に行って3周回りました。
熱い「温度感染」を感じます。
体育会系のジローには、
身震いするくらいに、うらやましい体験だと思います。
特に、「県民みんなで」ってとこの言葉ですが、
ホント、「一致団結」てか、みんなで生きてきたくらいの
歴史ある、重い想いを、こんな若い高校生が持ってることの
「家族愛」
を感じて、また、泣。
そして
それを、一身に背負っての
この監督と、島袋投手の、
集中力。
以下、産経ニュース 引用。
↓
島袋には、我喜屋監督からもらった大切な言葉がある。
「一生懸命やったといえるのは結果が出てから。
結果が出ないのは一生懸命じゃないから」。
夏も勝つためにはどうしたらいいか。過去5度しかない偉業への道のりに
マニュアルがあるわけではない。新球のマスターのほか、
スタミナづくりの投げ込み、走り込み。島袋はひたすら自分を追い込み続けた。
見守った我喜屋監督は「本当にたくましくなった」とエースの成長に連覇を確信したという。
若い調理場を統率するジローにとって、
耳の痛い、考えさせられる夏の大会でした。
興南野球と県民の皆様、おめでとうございます。
琉球県民だけでなく、日本が熱く燃えた 夏に 日本の若い未来の可能性を感じました。
そして、
もう一つの夏。
ジローの分身、
ケンタロウも、
熱い夏を乗り越えました。

福岡で開催された、
プチ甲子園。
西日本大会ですが、
小学生最後の 熱い暑い 夏 だったと思います。

「背番号0」が、
その主人公です。
残念でしたが、
1回戦で敗退。
まさかの逆転負け。
涸れる程の 涙 が溢れ
いいトラウマになったと
思いたいです。
みんなで苦しみ、泣き、笑い、相談、決断、休憩、喜び、団結。
「野球バカ」は
今日も練習の毎日です。

写真提供「感謝」です。











一心不乱に疑う事なく、全速で走るその先に、何が見えてるのでしょうね。

ジローは、見えましたよ。「ありがとう」
だいじなものを、見せてもらいました。
やらなければならないこと。
それぞれの 夏
それぞれの 甲子園・・・
いかがお過ごしでしょうか?
沖縄の興南高校が、春・夏の連覇を成し遂げた。
史上6校目の偉業。
ジローもチョコチョコですが、テレビやニュースで見るたび(甲子園大好き)
涙が出そうになることも、しばしばで、
ジローの高校生活がフィードバックして、人事とは思えないくらい、
感情移入の忙しい日々を、過ごす夏の短い期間であったと思います。
ジローは地味ですが、剣道部でした。
小さいころは、少年野球もしてましたが、
目に打球を受けて病院送りになったり、
素振りのバットが頭にあたったりと、
なにかとトラウマになることが多かったために
途中で球を見るのが恐くなってきたことと、
3ッ上の兄貴が剣道を始めたこともあって、
(この頃は、「赤胴鈴之助」の時代で、野球の次に剣道人口が多かった)
ジローの意見も聞き入れられず(俺はサッカーがしたかった)
オヤジに道場に放り込まれたのです。
今では、誰にも負けない、強情な精神力が付き(笑)
体力共に、剣道には感謝しています。
だから、全国レベルの高校生を見ると、
ジローの高校時代と、ダブッて見えてしまいます。
ジローが、高校3年生の時、インターハイで3位になったくらい
強い部でした。
ジローは残念ながら、あと1つの選手枠を逃したので、
メダルをもらえませんでしたが、
一緒に全国3位になった気持ちで、今もいます。
生まれは大阪ですが、小学校、中学校、高校と、
剣道王国の九州・長崎(1番想いの強い故里)にいました。
小、中と、県では、団体は常に優勝、個人でも、県で、最高2位。
(小学校では優勝もしばしば)
毎回メダルをいただいてました。(強かったんですよ。)
高校卒業後の母校の活躍はすごかったですよ。
インハイで何年か連続で、優勝してました。
興南どころじゃないくらいの偉業ですが、
なにせ、メジャーとは、ほど遠い「剣道」
甲子園なら、すごいニュースだったと思います。
って
自慢話は満足したので、「本題」に・・・。
今回の甲子園での、優勝インタビュー。
以下、熱闘甲子園サイト引用。
↓
試合終了後、インタビューで 我如古主将は、
「県民みんなで勝ち取った優勝です」 と答え、
沖縄県勢が甲子園で優勝すると
必ず起こっていたウェーブは、
相模アルプスも一緒に行って3周回りました。
熱い「温度感染」を感じます。
体育会系のジローには、
身震いするくらいに、うらやましい体験だと思います。
特に、「県民みんなで」ってとこの言葉ですが、
ホント、「一致団結」てか、みんなで生きてきたくらいの
歴史ある、重い想いを、こんな若い高校生が持ってることの
「家族愛」
を感じて、また、泣。
そして
それを、一身に背負っての
この監督と、島袋投手の、
集中力。
以下、産経ニュース 引用。
↓
島袋には、我喜屋監督からもらった大切な言葉がある。
「一生懸命やったといえるのは結果が出てから。
結果が出ないのは一生懸命じゃないから」。
夏も勝つためにはどうしたらいいか。過去5度しかない偉業への道のりに
マニュアルがあるわけではない。新球のマスターのほか、
スタミナづくりの投げ込み、走り込み。島袋はひたすら自分を追い込み続けた。
見守った我喜屋監督は「本当にたくましくなった」とエースの成長に連覇を確信したという。
若い調理場を統率するジローにとって、
耳の痛い、考えさせられる夏の大会でした。
興南野球と県民の皆様、おめでとうございます。
琉球県民だけでなく、日本が熱く燃えた 夏に 日本の若い未来の可能性を感じました。
そして、
もう一つの夏。
ジローの分身、
ケンタロウも、
熱い夏を乗り越えました。

福岡で開催された、
プチ甲子園。
西日本大会ですが、
小学生最後の 熱い暑い 夏 だったと思います。

「背番号0」が、
その主人公です。
残念でしたが、
1回戦で敗退。
まさかの逆転負け。
涸れる程の 涙 が溢れ
いいトラウマになったと
思いたいです。
みんなで苦しみ、泣き、笑い、相談、決断、休憩、喜び、団結。
「野球バカ」は
今日も練習の毎日です。

写真提供「感謝」です。











一心不乱に疑う事なく、全速で走るその先に、何が見えてるのでしょうね。

ジローは、見えましたよ。「ありがとう」
だいじなものを、見せてもらいました。
やらなければならないこと。
それぞれの 夏
それぞれの 甲子園・・・
いかがお過ごしでしょうか?
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